日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で

だが、ここで、福沢が危惧した「もし」という可能性を考えてみるとする。
たとえば、もし、ペリーが艦隊を率いて浦賀に入港したあとアメリカに南北戦争がおこらなかったとする。そして、まさに官軍賊軍攘夷入り乱れたままの混乱状態が続くうちに、日本がフィリピンと同様、アメリカの植民地となっていたとする。ありえないことだと思う人もいるかもしれないが、近代史を前に想像力を働かせれば、ありえなかったことではまったくない。
もし、日本がアメリカの植民地になっていたとしたら、そのとき日本の言葉の運命はどうなっていたであろうか。
日本は植民地に典型的な二重言語状態に陥ったはずである。
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日本にはやばやと「国語」が成立するのを可能にした歴史的な条件

一つは、近代以前の日本の<書き言葉>が<現地語>としては高い位置を占め、成熟していたこと。
二つには、近代以前の日本にベネディクト・アンダーソンがいう「印刷資本主義」があったこと。
三つには、近代に入って、西洋列強の植民地にならずに済んだこと。
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そして、重要なのは---世界的にみても重要なのは、このような非西洋の二重言語者である日本人が、西洋語という<普遍語>をよく読みながらも、<普遍語>では書かず、日本語という<国語>で書いたという点にある。それによって、かれらは翻訳を通じて新しい<自分たちの言葉>としての日本語を生んでいった。そして、その新しい日本語こそが<国語>---同時代の世界の人々と同じ認識を共有して読み書きする、<世界性>をもった<国語>へとなっていったのであった。
そしてその<国語>こそが、日本近代文学を可能にしたのであった。
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だが、英語が<普遍語>になったことによって、英語以外の<国語>は「文学の終わり」を迎える可能性がほんとうにでてきたのである。すなわち、<叡智を求める人>が<国語>で書かれた<テキスト>を真剣に読まなくなる可能性がでてきたのである。それは、<国語>そのものが、まさに<現地語>に成り果てる可能性がでてきたということにほかならない。
<国民文学>が<現地語>文学に成り果てる可能性がでてきたということにほかならない。

英語教育と日本語教育

英語の世紀に入ったということは、国益という観点から見れば、すべての非英語圏の国家が、優れて英語ができる人材を、十分な数、育てなければならなくなったのを意味する。
原理的に考えれば、三つの方針がある。
Ⅰは、<国語>を英語にしてしまうこと。
Ⅱは、国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと。
Ⅲは、国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。

もし、私たち日本人が日本語が「亡びる」運命を避けたいとすれば、Ⅲという方針を選び、学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになるほどいいという前提を完璧に否定し切らなくてはならない。そして、その代わりに、学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てねばならない。英語の世紀に入ったがゆえに、その当然の前提を、今までとは違った決意とともに、全面的に打ちたてねばならない。