もはや政治を語れない 徹底検証:「民主党政権」で勃興する「ネット論壇」 (現代プレミアブック)

一次情報を取材でき、かつ専門的な裏付けを持って何がニュースかを選定し、世論を方向付けてきたマスコミ。
最近の政治事象とそこでのマスコミのニュースを検証して、具体的にマスコミの論調がいかにロジカルでないかを説明している。
八ツ場ダム問題の報道には私も強い違和感を感じていたが、著者の論評でこの思いが整理できた。自分たち市民が専門分野でまっとうな発言をしていかないといけない。

論考や分析は一次情報をもとにロジックを組み立てていくものであって、必ずしも取材は必要ない。もちろん追加取材でさらに突っ込んだ分析ができるようになるのならそれにこしたことはないが、さんざん取材した挙句にくだらない論考しか垂れ流せないマスコミ記者よりも、いっさい取材しないブロガーの論考の方がずっと良質というケースは、無数にある。
論考・分析は、情報を読み込む能力さえあれば、誰にでもできるからだ。その点においては、取材現場にいるマスコミ記者も、机の前に座ってブログを書いているブロガーも、同じスタート地点に立っているのである。

情緒的な「脱ダム」批判を繰り返すマスコミ

マスコミの情緒報道と、それと対照的なネットのロジカルな分析--。そのような対比が、政権交代後のさまざまな局面であらわとなっていった。たとえば八ツ場ダム問題がそうだ。
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なんとも不思議だったのは、マスコミ言論の向かった方向性だった。民主党の脱ダム政策を歓迎すると思いきや、なぜか報道はまったく逆へと突っ走って「地元」寄りの民主党批判を始めたのである。
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これまで環境保護運動を支援して、「環境を大事に」というスタンスの記事を書き続けてきた朝日や毎日は、「脱ダム」を思い切り強く推進してきたはずだ。
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ところが、だ。民主党が八ツ場ダム建設中止を打ち出したとたん、そうした考えはなぜか一掃され、「地元がかわいそう」「勝手にダム中止するな」という声が紙面にあふれ始めたのである。
いったいどういうことか。
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「なぜ中止するのか」の大合唱なのだ。もちろん利害関係のある地元自治体が建設中止を訴えるのはわかる。なにしろダムは道路と並んで、利益誘導型の公共工事の代表選手だ。なくなってしまうと地元にカネが落ちなくなってしまう。でもそんなことは昔からわかっていた話で、いまさら「ダム推進」に新聞社が路線変更する理由にはならないだろう。
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毎日がもし本気で「ダム推進」に舵を切るというのであれば、それはそれで構わない。誰にだって考えを変えることはある。
でももしそのような路線変更をするんだったら、ちゃんと説明すべきだ。「なぜ建設はすすめなければならないのか」ということをきちんとロジカルに書かなければいけない。
ところが、これらの記事にはロジカルな説明などどこにもない。ただひたすら「地元がかわいそう」と情緒をあおり、そして「地元の町村や県や協議会が反対している」ということを延々と集中豪雨的に報じているだけだ。
このジャーナリズムにいったい何の価値があるんだろう?

官僚に操られるマスコミ

どうしてマスコミはこうなってしまったのだろうか。どうして今まで「脱ダム」だったのに、急にダム推進派に鞍替えし、おまけに情緒報道に思い切り転換してしまったのだろうか。
じつはこれらの説明をマスコミに対して流しているのは、国土交通省の官僚たちだ。民主党の脱ダム政策をなんとか阻止しようと、マスコミを巻き込んでネガティブキャンペーンを繰り広げているのである。
彼らはもちろんサンクコストのことなど重々理解しているが、しかしマスコミの若い記者たちにはそうした概念はあえて教えない。
そうしてマスコミの、特に若い記者たちは老獪な官僚たちにころりとだまされ、ネタと引き換えに官僚の意のままになる記事を垂れ流すはめになってしまっているのである。
社民党の保坂はこう指摘している。
政権交代によって危機に陥った国土交通省のダム官僚たちが煽っているデマを何の精査もせずに垂れ流しているテレビ番組を見ていると「思考停止社会」も極まっていると感じる。」