登場人物:
- 伊藤 正一・・・1923年松本市生まれ。昭和21年、三俣蓮華小屋、水晶小屋を譲り受け、「山賊」たちの協力を得て湯俣山荘、雲ノ平山荘を次々建設し、昭和31年には北アルプスの最後の楽園「雲ノ平」への最短ルート、伊藤新道を独力で完成させた。
- 遠山 富士弥・・・山賊の頭。名猟師品衛門の三男として、幼少の頃から黒部を舞台にして猟を教え込まれ、カモシカ約1000頭、熊約100頭を獲った。黒部の旧東信歩道は彼が兄の兵三郎とともに人夫を指揮した。黒部の奥地で、独りで越冬するという、世人にはできないことをしたため、黒部の山賊として恐れられた。1887年生まれ。
- 遠山 林平・・・富士弥の従兄弟にあたる。猟の技術や獲った獲物の数など、富士弥に勝るとも劣らない。とくに彼の岩魚釣りの技術のすばらしさは、まさに芸術の域に達していたといえる。1901年生まれ。
- 鬼窪 善一郎・・・小男だが足は速く、常人の三、四倍を平気で歩き数キロ先にいる熊をよく発見した。カモシカ200頭、熊100頭を獲った。1914年生まれ。
- 倉繁 勝太郎・・・新潟県出身だが、松本市近郊空き明科に住んでいた。のち、遠山富士弥から猟を伝授され、大町に移り住む。とくに熊獲りにすぐれ、カモシカ100頭、熊300頭を仕留めている。1887年生まれ。
熊という動物は、耳と鼻は非常に敏感だが、目はあまりよくない。したがって風下から、音をたてないに近づくのが熊獲りのコツである。倉繁は風下から熊の至近距離から忍びよっていた。・・・
彼らは前日の場所から、血の跡をたどって約3時間追跡した。熊は腰を抜かし、前足あたりの藪をひっかきまわしてうなっていた。鬼窪の第二弾が腰のあたりの背骨に当たっていたらしい。
夕方になって彼らは熊の皮と肉を背負えるだけ背負ってきた。翌日もまた別の二人が行って肉を背負ってきたが、まだだいぶ残してきたらしい。
大きな熊だった。林平は上手に皮を張ったが、長さは六尺三寸あった。大きな鍋で肉を煮ていると、倉繁は熊の腸をその中に入れようとした。腸の中には排泄寸前の糞がぎっしりつまっていたので鬼窪があわててとめた。・・・結局食べきれなかったので、残った分でハムをつくった。
倉繁は骨までていねいにとりまとめた。神経痛がかなんだかの薬になるから、持ち帰って売るのだという。
なかでも彼らが大切に取り出したのは、万病の薬だといわれる「熊の胆」である。胆というのは、胆嚢のことで、熊を怒らせるか苦しませるかしたあとでとると、大きくなっている。それは小さなナス形のブヨブヨしたものだが、これを焚き火の上の棚につるして乾かすと、やがてチューインガム程度にねばり気が出てくる。それを二枚の板のあいだに挟んで薄い楕円形にし、さらに乾燥させてかたくすればでき上りである。熊の胆は目方で金と同じ値段がするといわれているので、彼らは興味深く目方を量った。それは約八匁で、熊の胆嚢としては大きな方だった。