ブランドなんかいらない

ブランドなんか、いらない―搾取で巨大化する大企業の非情

ブランドなんか、いらない―搾取で巨大化する大企業の非情

メディアのブランド化

いまや企業はネットのあらゆる場面で、単に誰かのサイトに資金を出すより、念願だった「コンテンツ・プロバイダー」になる試みを始めている。ギャップのサイトでは旅行のコツが読めるし、フォルクスワーゲンでは音楽のサンプルが聴ける。ペプシはゲームのダウンロードをすすめ、スターバックスは自社が発行する雑誌「ジョー」のオンライン版を提供している。ブランドのウェブサイトは、完全にブランド化された独特のバーチャル・メディアだ。これは実際のメディアへと拡大する足がかりである。企業はオンライン上で商品を売るだけでなく、メディアとスポンサーの新しい関係のモデルをつくろうとしているのだ。無政府主義的な性質を持つインターネットはこの試みに場所を提供し、すばやく浸透させているが、企業は明らかにオフラインへの進出をねらっている。

レヴィットの言う「グローバル」な企業とは、もちろんアメリカ企業であり、彼らが推進する「似通った」イメージとは、アメリカのイメージだ。日本のテレビでは、ブロンドの青い目の子供がケロッグのシリアルを食べる。マルボロマンは、牛とアメリカの大地をアフリカの村々に届ける。コークとマクドナルドは、「アメリカ合衆国」の味を全世界に売る。世界進出が途方もない夢から現実となったとき、このカウボーイ・マーケティングの狂態に、人々は不快な思いを抱くようになった。20世紀の有名なお化け「アメリカ文化帝国主義」は、最近になって各地でさまざまな波紋を広げている。フランスでは「文化的チェルノブイリ」と非難され、イタリアでは「スローフード運動」が起こり、インド初のケンタッキー・フライドチキンの店の外では、鳥が焼き殺された。

企業による検閲

選択への攻撃は、強引な小売りや独占的なシナジーのレベルを超え、商品撤去や内容への干渉など、「検閲」としか言いようのない事態にまで発展している。かつて検閲とは、政府など公的機関、北米社会ではさらに政治的、宗教的圧力団体による内容への規制を意味したが、この定義は時代遅れになりつつある。マリリン・マンソンのコンサートの禁止を訴えるジェシー・ヘルムズ上院議員のような人や教会の女性信者はつねにいるが、そんなものは、私たちがいま直面する表現の自由への脅威に比べれば、些細なことである。
企業検閲は、前の2つの章の話に関係している。メディアと小売り企業が巨大化したため、店に何を置くか、あるいはどの文化商品を推奨するかについての彼らの判断---かつては製造元の自由裁量に任されていた---が、大きな意味をもつようになったのだ。彼らはいまや、文化地図を塗り替える力をもつ。雑誌がウォルマートの棚から撤去され、Kマートは店の趣旨に合うようCDジャケットを変えさせ、ブロックバスターの「家族の娯楽」に合わないビデオは拒否される。そして、店で何が手に入るかだけではなく、次第に商品自体にも影響を与えるようになった。

企業の行動規定

行動規定はひどく曖昧な存在である。法律とは違い、違反しても罰則はない。そして組合の契約のように、労働者の要求に応えて、工場の責任者と協力の上でつくられたものでもない。それは例外なく、ニューヨークやサンフランシスコといった都会で、不快なメディア報道が起こった直後に、企業の広報部が書いたものだ。
ウォルマートのそれは、バングラディシュの委託工場が子供を働かせているという報道が出た直後につくられた。ディズニーのそれは、ハイチ問題発覚により生まれた。リーバイスは受刑者が製造しているというスキャンダルの後だった。その当初の目的は、改革ではなく、「外国で騒いでいる連中を黙らせる」ことであり、それは全米服飾製造者協会の弁護士、アラン・ロルニックが企業にアドバイスしたものだ。
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基本的人権の執行を多国籍企業に任せるという考え方は、なんとも奇妙である。その私的な規定で、人権を商品の品質管理と同様に扱おうというのだから。世界的な労働・環境基準は、すべてを広告会社のアドバイスに従う多国籍企業と会計士の共同体ではなく、法律と政府によって規制されるべきである。企業の行動規定は、個々の企業がつくったものであれ、グループでつくったものであれ、第三者の監視があってもなくても、それがただの紙切れでも、民主的に管理される法律ではない、ということだ。もっとも厳しい規定であっても、多国籍企業が外部機関に監督されるわけではない。逆に、これは彼らに別のとてつもない力を与える。それは、自分たちの私的な法体系を書く権利だ。その法で自分たちを調査し、取り締まる。まるで国家のように。