葬式は要らない

仏教を大衆化させる道を開いた親鸞

親鸞の活動によって、浄土教信仰は、貴族から一般民衆のものとへ変貌した。法然親鸞が説いたのはひたすら「南無阿弥陀仏」を唱和することで、この教えにしたがいさえすれば、壮麗な浄土式庭園や阿弥陀堂をつくる必要などなかった。
ただし法然親鸞は、仏教の教えを念仏行による往生に集約し、仏教と死とを強く結び付け、それを大衆化することには貢献したが、仏教式の葬式を開拓したわけではなかった。

禅宗から始まる仏教式の葬式

仏教式の葬式が開拓されたのは、道元が開いた、やはり鎌倉新仏教の曹洞宗においてである。
道元は、「只管打座」を説き、ひたすら座禅して悟りにいたることを強調した。そして禅のための道場として越前(福井)に永平寺を開いた。永平寺の禅僧たちは、今でも厳しい禅の修行を実践している。
こうした道元永平寺の姿から、曹洞宗が今日の仏教式の葬式を生んだことをイメージしにくいが、曹洞宗の第4祖となったけい山紹芹きんは、宗派の経済基盤を確立する必要もあって、密教的な加持祈祷や祭礼を取り入れていく。
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1103(長保5)年に中国の宋で編集された「禅苑清規」という書物には禅宗の葬式の方法が記されている。清規とは、禅宗の寺院の儀礼や行事の規則について記した書物のことを言う。
「禅苑清規」が定めた葬式の作法は、「尊宿葬儀法」と「亡僧葬儀法」に分かれる。前者が、すでに悟りを開いた僧侶のための葬式に方法であるのに対して、後者は、修行の途中で亡くなった僧侶のためのものだ。
修行中にあるということは、完全な僧侶であるとは言えず、その立場は在家に近い。そこで、亡僧葬儀法を在家の信者にも適用した。これによって、亡くなった在家の信者をいったん出家したことにし、出家者の証である戒名を授けるという葬式の方法が確立される。
ただ、念仏を唱えるだけであれば、特別な儀式は必要とされない。ところが、禅宗において、在家のための葬儀の方法が確立され、それが日本社会全体に広がることによって、日本的な仏教式の葬式の基本的な形態が生まれた。こうして仏教は死の世界と密接な結び付きをもつにいたったのである。