*[本]コーヒー博物誌

コーヒー博物誌

コーヒー博物誌

エチオピアの高原から

現在、世界中で最も広く用いられている嗜好飲料コーヒーの原料は、コーヒーノキという植物の種子である。人類が、その樹を発見したのがいつ頃のことか、またコーヒーがいつから飲まれるようになったのかなどについての定説はなく、まだ正確にはわかっていない。
古い文献や記録から推定して、コーヒー原産地エチオピアでは三〇〇〇年以上の長い歴史と伝統を有する神秘の土地で、この国の中央を縦走する東アフリカ地溝帯は国土の地形と気候を東西(低地の乾燥砂漠地帯と、雨量と気候に恵まれた高原山岳地帯)に大きく鮮明に二分している。
・・・・・
熱帯圏エチオピアは、峡谷や砂漠による起伏に富む険しい地形と厳しい気象条件のなかにありながら、高原地帯はだけは標高二、三〇〇〇メートルの温帯性気候で、年間雨量も一〇〇〇ミリメートルを越え、天恵の慈雨、豊穣な風土、穏やかな自然環境に恵まれ、広大な山岳一帯に豊かな植物宝庫を育んだ。緑したたる草本や樹林に混じって、古くから野生のコーヒー樹(ワイルドコーヒー)も繁茂していた。

キリスト教説とイスラム教説

レバノン言語学者ファウスト・ナイロニの『眠りを知らない修道院』(一六七一年)に記された説話によると、高原の山羊飼いカルディーはある時、野生の赤い木の実を食べて興奮し、日夜騒ぎまわっている山羊の群れを見つけた。彼は大変興味深く思い、近くの修道院の僧に告げ、いっしょにそのきのみを食べてみたところ、全身に精気が漲ってくる効力を知った。早速、ほかの修道僧にもすすめたのが発端となって、長い間彼らを悩ましたミサの勤行と睡魔の苦行から僧侶たちを救うことができたという。
これが世にいう「キリスト教説」(エチオピア高原発見説)と呼ばれる伝説である。
一方、アラビアの回教徒シェーク・オマールは領主の美しい娘を病から救ったことが却って災いし、娘との関係を疑われて領主の激しい怒りをかった。無実の罪に問われてイエメンのモカを追放される憂き目に会った彼は、飢えに苦しみながらオーサバ山中をあてどなくさまよい歩いていた。ふと、一羽の小鳥が木の枝に止まり、陽気にさえずるのを耳にし、そっと近づいてみると、そこには枝に赤い実をたわわに実らせた喬木が立ち、小鳥がその木の実をしきりについばんでいる。彼は誘われるように、小鳥が教えた世にも不思議な木の実を採り、煮出し汁を飲んで飢えを癒したが、意外にもそれが心身に活力を与える効能を知った。
医家でもあるオマールは、彼を訪ねてやってきた以前からの患者にこの煎汁を与え病人を救ったので、その功績によって罪を解かれ再びモカに迎えられ、以後、彼のための修道院を建ててもらい、聖者として厚く尊ばれるようになった。
これがいわゆる「イスラム教説」(オマール発見説)で、以上キリスト教イスラム教のそれぞれを宗教的背景にもつ二つの説話があって、資料により多少内容を異にするものの、コーヒー発祥にまつわる二大伝説として広く知られ、語り継がれている。

歴史略年表

一〇〇〇前後  アラビアの名医ラーゼス・アビセンナがコーヒの液汁を医療に用い、記録に残す。
一三〇〇   アラビアを中心にしたイスラム教の寺院で、生豆を煮出して、秘薬として利用するようになる。
一四五四  アデンの僧院で、煎って煮出した秘薬が公開される
一四七〇  アフリカのアビシニア高原から南アラビアのイエメン地方に、コーヒーの樹が移植される。
一五一〇  カイロにコーヒーが紹介される。翌年、カイル・ベイによるコーヒー禁止令。
一五一七  オスマン・トルコのセリム一世によりコンスタンチノープルにコーヒーがもたらされる。
一六四〇  オランダの貿易商がアムステルダムに初めてコーヒーを輸送。